黄檗カレンダー令和四年七・八月の書です。
黄檗カレンダーは黄檗宗青年僧会発行のものです。
『拈華微笑』
お釈迦様の在世当時、大舎城(おおしゃじょう)という古代インドのマダカ国最大の都に最も長く滞在されていました。そこにある霊鷲山(りょうじゅせん)や竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)で説法をされていました。ある日、いつもの様に大衆が待つ霊鷲山で説法の座に登られました。その手には、金波羅華(こんぱらげ)という花を持っておられました。無言で大衆を見まわし、大衆の前にスッと花を差し出しました。普段なら説法が始まるところ、花を差し出し黙ったまま。大衆が不思議そうな顔をしている中、お釈迦様の一番弟子である魔訶迦葉(まかかしょう)だけは笑顔を見せられ『微笑(みしょう)』されました。この魔訶迦葉の破顔微笑(はがんみしょう)を見たお釈迦様は、初めて口を開きました。「吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相(じっそうむそう)、微妙(みみょう)の法門あり。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)なり、魔訶迦葉に付属す。」と話され、お釈迦様の法が魔訶迦葉に確かに伝わったことを顕されました。
『拈華微笑』、お釈迦様から魔訶迦葉へ言葉ではなく心から心へ正法が伝持した伝灯の起源のことを指します。その伝灯が引き継がれ、二十八代目の禅宗の初祖菩提達磨(ぼだいだるま)は禅を中国でひろめました。そして、多くの高僧によって日本へも伝わっていきました。黄檗宗の開祖隠元禅師もその一人です。その伝灯は二千五百年、現在も脈々と引き継がれ、私たちを済度下さいます。ほんとうに有難いことです。
お釈迦様は、自身の悟り得た境地をいくら言葉にしても伝えきれないと感じておられました。晩年、これを何とかして後世に伝えるべく、霊鷲山に於いて言葉ではなく花を拈じるという方法で示されました。その花は、正法そのものだったのでしょう。そこで、その境地に達していた魔訶迦葉だけは微笑されたのです。もしかすると、魔訶迦葉自身がその拈じられた華だったのかもしれません。
宝善院では、今年もきれいな桔梗の花が咲きました。
水子供養と永代供養墓の京都のお寺
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宝善院(ほうぜんいん)
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